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ウイグル/ウイグル詩人/Perhat Tursun/Uyghur Poet

囚われのウイグル詩人 ペルハット・トルスン  

詩が語るペルハット・トルスンの半生
ペルハット・トルスンとはどういう人か
不条理の哲学とペルハット・トルスン
ペルハット・トルスンの詩の世界
新疆 強制収容所から流出した内部文書 日本語訳
強制収容所の中にいる人たち

 

挿入詩 五年出会い騙してもいい四十六行詩独身男

 

 詩人は、自分が持って生まれた「詩人の魂」の声を、言葉の力を借りて表現する者だと、私は思っている。これまでに興味を持って学んだいくつかの言語で書かれた詩を読み、詩のことばの美しさを味わい、詩人の心を探り、共感し、感動した。そして、翻訳された詩を読む場合は、詩人の生きた時代や属した社会など、その詩が生み出された背景が明らかにされたときに、詩の味わいがさらに深くなることを知った。 
 ペルハット・トルスンの「燃えている麦」という詩を読んだとき、すごい詩を書く人だな、という印象を持った。ただ、名前はうろ覚えだった。
 数年後、「2016年から中国で収容所に入れられているウイグルの知識人リスト」 の中でPerhat Tursun ペルハット・トルスン(パルハット・トルスン)という名前を見たとき、どこかで見たことのある名前だなと思って確かめると、やはり「燃えている麦」を書いた詩人その人であった。

 中国では現在も約100万人のウイグル族、カザフ族などイスラム教徒の少数民族の人たちが、強制収容所に収監され、強制労働に従事させられている。収容所では身体的、心理的拷問も行われ、中国共産党への忠誠を強いる洗脳教育が行われている。  
 中国政府は「新疆地区の収容所は住民らが自発的に職業訓練を受けたり、テロ対策として過激思想を解いたりするためのものだ」と主張しているが、2019年に収容所の機密文書が流出し、専門家により本物であることが認められ、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が公表した。この文書を読むと、収容所が職業訓練センターという名を借りた強制収容所であることがわかる。

 ペルハット・トルスンは2018年1月末に当局に拘束され、懲役16年の判決を受けた。今、彼がどこにいるのか、どういう状態でいるのか、確実な情報は得られていない。(懲役の年数については15年とする資料も見られ、確かではない。)
 現在、中国以外の土地で暮らすウイグル人たちはさまざまな組織を立ち上げ、ウェブ図書館を作り上げている機関もある。ここで私が翻訳した詩のほとんどは、それらの機関のサイトからダウンロードしたものが元になっている。
 故郷に帰ることのできなくなったウイグル人にとって、自分たちのアイデンティティーを失わないためには、ウイグル語とウイグル文化を意識的に強く保ち続けることが必要だが、故郷から離れている時間が長くなればなるほど、それは難しくなる。しかしウイグル人たちは強い意志を持って、インターネット上でウイグル文化に関するサイトを続々と立ち上げ、精力的な活動を続けている。

                 オアシスの並木道(筆者撮影)            

 

詩が語るペルハット・トルスンの半生

五年

僕の人生は 五年ごとに一つの区切りがある
五歳で学校に入った その当時は 時間の経つのが遅かった
一人の地主が牢屋から出てきたとき皆が 「彼は五年間牢獄にいた」 と言った
ああ 何という長い時間だ 私の人生と等しいではないか 
私はそのとき五歳になったばかりだった

「文化・娯楽・生化学」が大学時代のすべてだった  
心の中には 戸惑いと不安が満ちていた
その五年は 時間の経つのが遅かった
反抗心から 自分の肉体の欲望を認めることにした
いつも感じていた 「卒業まで何と長いのだ」と

いま 人々との間はだんだん近くなった
他人がいつも じっと見つめている
いつも 彼らの口臭を感じている
時間は変化して だんだん短くなった
口をあけてまだ一言を話し終わらないうちに
五年が過ぎた

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 1966年、毛沢東主導による権力闘争、文革(文化大革命)が起こった。毛沢東は敵対する勢力を排除するために、熱狂的に彼を支持する青少年を集めて紅衛兵を組織し、彼らを利用して多くの知識人、芸術家、宗教関係者、元地主、元資本家やその家族を攻撃した。    
 リンチや殺人が公然と行われ、それだけではなく、全国各地にあるキリスト教会や仏教寺院、イスラム教のモスクが破壊され、貴重な文化財が焼き払われた。文革は開始されてから十年後、毛沢東の死で実質的な終焉を迎えた。   
ペルハットが誕生したのは1969年1月で、そのとき元地主であった父親は反乱軍容疑者として刑務所に入っていて、息子の誕生を独房で聞かされた。彼は息子を「ペルハット」と命名した。   
 文革が終わり1980年代になると、政府は過去の民族性排除の政策を緩和させ、国営出版社がウイグル文学の古典作品の翻訳出版に取り組み、ウイグル語の小説、詩集なども続々と出版された。約10年間、ウイグル文学にとって「黄金時代」と呼ばれる時代が続いた。   
 文革が終結したときに小学生だったペルハットは、15歳で北京の中央民族学院・少数民族語言文学系 (学部) に入学した。ペルハットが北京で学んでいたのはちょうど「黄金時代」の最後の5年間だった。   
 中国政府が少数民族の子弟に奨学金を与えて漢語を習わせることは、漢化政策にとっての必須課題だった。だがこの漢化政策の一環である語学教育は、ペルハットにとっては外の世界に目を向ける機会を与えてくれるものになった。   
 入学したときは自分の名前を書くことがやっとだった漢語能力は、5年間の在学中に仏教やキリスト教関係の本、心理学や西欧諸国の漢訳本を読み、漢語で詩を書くことができるまでの水準に達した。手当たりしだいに本を買い求め、海綿が水分を吸収するように大量の知識を取り入れていった。

   

 ペルハットが詩を書きはじめたのは11歳のときで、1998年にウルムチで出版された『愛の詩100選』には、15歳のときに北京で書かれたものが一篇含まれている。  
 これが、彼自身が自信を持って公表したいと思った最初の詩であろう。『愛の詩100選』のほとんどは、ペルハットが北京にいた5年のあいだに書かれている。


 出会い (1984年)

夢のように月の光が流れている
夜の静けさの中で僕は道に迷った
夜の風は命に安らぎを与える 
だが 胸には傷があるのを感じる

おお かすかな風が頬を撫でて
鼻孔に香水の香りを打ちつける
この香りは 君の体から来たのだと感じる
ああ 最後には君が来てくれると思っていたのに

血の気を失い 壁のように青白くなった……
心臓の鼓動は速くなり 一瞬 震えが走った
すべては空想だ だが僕の体は 息が止まり 
芝生に倒れ込んだ

バラの根元から 月が昇っていくのが見えた
僕のありさまを見て 君は大声で笑うだろう
恋人よ 手を差し伸べてくれ 命を失った僕に
ここから起き上がって 君の体にもたれよう

火のような君の唇に 口づけを と思った
ああ しかし もう耐えられない
月の光がとても冷たい
僕の体はその瞬間
北極の氷のように硬直している……

 


 騙してもいい  (1988年)

君は騙してもいい 僕を騙してもいい
偽りでいい 甘えたように僕の目を見てくれ
君の前にひざまずこう 強く見つめないでくれ
君の嘘が僕には必要なのだ わかってくれ

騙されることの味わいは どれほど甘いことか
僕の前で 光りの世界がベールをとる
無慈悲な現実など すぐに忘れよう
騙しが満ちあふれたら 
逢瀬は美しい
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 『愛の詩100選』はタイトルが示すとおり、すべてが恋愛をテーマにしたもので、これらの詩を読むと、ペルハットが幼いころからウイグルの伝統的な詩を聞いたり読んだりしていたことがわかる。   
 自分の思いが届かない恋人にあてて連綿と恋心を書き綴る、というのが伝統的な詩の一つの技法で、アラブ文化やペルシャ文化の影響を強く受けたウイグルの古典詩では、神を恋人に仮託して詠まれたイスラム神秘主義的なものも多く見られる。   
 しかし、この時代にペルハット少年が詩に詠みこんでいる女性は、もちろん普通の女性で、初恋の人がいたことがわかっているので、時には彼女のことを想像して書いたのかもしれない。   
 古典詩においては、恋人は絶世の美女でなければならないし、また残酷でなければならない。恋人は自分に恋焦がれている男のぶざまな様子を見て笑う。風が運んでくるのはいつも恋人の髪や体の香りである。   
 紹介した2篇以外の詩でも、古典詩でおなじみの比喩がたびたび使われている。  
 また、ウイグルの古典詩には四行ずつの連で詠まれ、脚韻を踏んでいて、声を出して読むとそのリズムが心地よく響く伝統的な定型詩があるが、『愛の詩100選』の中の何篇かは、その形式を踏襲している。   
 ペルハットは学生時代に詩の言葉を磨き上げていった。この詩集の詩の中にも、古典的な恋愛詩の味わいを保ちつつ、彼独特の鋭い響きを持つ言葉が織りこまれているものがある。古典詩における典型的な比喩も少しずつ現実的なものに移っていく傾向が見られる。
 しかし、この五年という短い期間で、ペルハットは大人にならなければならなかった。彼が学業を終えようとしたまさにその年、1989年に天安門事件が起こったのである。民主化を求めて北京の天安門広場に集まっていたデモ隊に軍隊が発砲し、多数の死傷者が出たこの事件は、ペルハットに大きな衝撃を与えた。  
 彼は後に、この時期の心の動きを詠みこんだ詩を書いた。それが「四十六行詩」である。


 四十六行詩 (2004年10月31日夜)

小雨は おかしくなった女がささやく内緒話に似ている
氷のように冷たい雨が 火のように熱い肉体を突き刺す
女は永遠に治せない傷跡を抱えた街
なぜならこの街は 一度も秋を過ごしたことがないから

両腕をむき出しにして 人の群れの中を漂流する
都会のすさんだ生活は さらにひどくなる
早熟な少年はいつもうつむいていた
人に快感をもたらす全てが 彼には不安と苦痛しかもたらさず
渇望はするものの 女の愛のもくろみに耐えられなかった

街の中で死ぬのは 狂って危険な行動だ
なぜならこの種のやり方は すでに時代遅れだからだ
人は音楽を手放したくないので
この世で最も美しいものを 刑罰の道具にする
狂暴な音楽の中にいると 人は水も火も恐れない
我らの冷たい愛は この火の熱の中で始まった

伝統を護るのは 未婚の女が処女膜を護るのに似ている
だが 無くしてしまいたいという抗しがたい願望が潜んでいる
噴水のある池は 街をみだらな化粧品にしている
星のない空は混沌として 罪を感じさせるような魅力がある

二十歳になった年に突然老衰した なぜなら血なまぐさい事件に直面し
失恋 絶望 自殺の衝動 全てが楽しく感じられたから
二十歳になるや 人生の後半生を送る人間の顔になり
長くて残酷な花の季節に別れを告げた
腎虚(じんきょ)の逃亡者にできることは 
夢から夢へと侵入することだけ
どれだけ遊んでも うつ病ゲームを遊びつくすことはできない

秋のない街は 暑いか寒いかどちらかだ
女は厚着か ほとんど裸のかっこうをしているかだ
昼間の眠りは犯罪とみなされる
ああ 部屋よ どんなことでも疑っていいのに
お前はどうして知らないのか
ネズミ同様 ガラクタの詰まった地下室をさまよっている それが私だ
お前はどうして知らないのか
ろうそく同様 私の胸で理性を失う それがお前だ

私はお前に ただ狂気を持ってくるだけ
全ての人間には 発狂する権利がある
偉大な暗黒を選択し 残酷な日光を選択し
白夜は常に極端だとみなされ 排斥される
ストッキングを履いている女の体が想像できない
人は命の最後の秋を 追憶することができない
君に持ってくることができるのは 取り除けない罪悪感と
地下室のように真っ暗な思い出だけ

我らはすべてのことを見通せるから
我らが人を殺さないのはなぜか その真意を悟った
あの雨の夜 お前は言った
「わかったぞ、我らにかなう者はいない、我らは最も偉大な敗北者だ。
水と火の接触は 一種の永遠の生命力」と

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 「四十六行詩」は漢語で発表されている。ペルハットは主にウイグル語で書き、漢語への翻訳が必要になった場合は自分自身で漢訳をしている。また、漢語のみで発表された詩も多い。    
 腎虚(じんきょ)という漢方用語が出てくるが、これは腎の「気」が欠乏して起こる症状の総称で、俗説では過度な性交のために起こる精力減退を指すとされている。
 「四十六行詩」は彼が35歳になった年の10月31日の夜に書かれている。わざわざ時間帯まで記しているのが珍しい。夜の静寂の中で、二十歳のころの自分を振り返ってみていたのだろうか。

 ペルハットは学業を終えたあと、ウルムチにある新疆ウイグル自治区人民群衆芸術館の研究員になり、翻訳業務などに携わりながら精力的に詩作を続けていた。
 しかし1998年に出された中編小説集『救世主の砂漠』と翌年に出された長編小説『自殺の芸術』の内容が反イスラム的だということで激しい攻撃にさらされ、これ以降、どこの出版社も彼の作品を出版しようとはしなくなった。脅されたり、自宅には脅迫の電話までかかってくるようになり、この騒動のあと、妻は息子を連れて彼のもとを去っていった。   
 ペルハットは2005年、36歳のときに中央民族大学(旧中央民族学院)の大学院に入るために、再び北京に住むことになった。15歳のときに中央民族学院に入学し、ウイグル古典詩の技法や比喩と象徴の表現を採り入れたみずみずしい愛の詩を書いていたペルハット少年は、20年後、「独身男」というタイトルで、北京で一人暮らしをしている孤独な男性のリアルな心情を描写している。


 独身男 (2006年)

郊外は物価が安く長距離電話は一分で一毛(もう)
だが彼は 日用品の購入や長距離電話のために行くのではない
彼は悪魔を腹に抱えた毒蛇のようなもので
両側に理髪店●●が並ぶ通りを 這うようにして進む
ゴミ箱の中のコンドームが乾きはじめている
道の上の泥と細長いハイヒールが腐りかけている
街の隅々にまで 寒さが疼痛のように這ってくる
みんなは厚い服を着て 隙間なく肉を覆っている ただ
ある種の理髪店の窓の中では 女たちが太ももや胸をさらけ出している
彼女たちの熱い肉は 目の中の冷たい飢えと戦っている
道行く者を 一人一人冷静に観察し
一瞬でも自分に目を向けた者がいると 駆けつけて挨拶する
彼女らの情熱は 窓の上に書かれた「理髪」の文字のように不完全だ

女への恐怖心を視線の中にためこんで
ポケットにコンドームを詰めこんで
独身男が真夜中の街を駆け回る
体から血が出ているように 息が熱くなる 熱くなる
だれも彼の手を握ることができない だれも彼を感じられない
肉体が冬眠したかのように 両手が冷たい 冷たい
寒さは 極端な思考を突き刺すことができる
寒さは どんなレベルの狂気でも凍らせることができる
理髪店の窓の中で燃えている肉体だけが
冷たい通りに 熱を放射している

(もう):口語で一元の十分の一の単位。正式には角 という。  ●●現在でも、表向きは理髪店や美容院の看板をかけているが、実際は性的サービスが行われている店がある。

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 ペルハットは20歳のときに北京で天安門事件を目撃したのだが、20年後、再び大きな事件の目撃者となった。2009年7月5日、ウルムチでウイグル人と漢族の暴力を伴った衝突事件が起こった。これは日本のマスコミでも報道されたので記憶に新しいが、これ以前にもカシュガルでは親中国政府の宗教指導者が暗殺され(1996年)、イリ(グルジャ)では集まって礼拝をしていた青年たちが当局に逮捕され(1997年)、ホータンでは政府への抗議デモが行われ(2008年)、そのたびに大きな騒動となり多数の犠牲者を出していた。    
 ペルハットはウルムチの事件のときには大学の休暇で帰郷していた。彼が両親と暮らしていた公舎は事件が起きた現場のすぐ近くにあったが、幸いにも彼らに被害はなかった。しかしこのあと、ウイグル人が置かれている状況は急速に悪化していった。   
 ペルハットは2011年6月、博士号を取得したあと北京で職を得ようとした。ウルムチの状況を考えたからであろう。しかしこの望みは果たせず、元の職場である群衆芸術館に勤めながら創作活動を続けることになった。

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ペルハット・トルスンとはどういう人か


 ペルハット・トルスンの人となりがわかる発言をしている人物が五人いる。彼らのことばを借りて詩人の紹介をすることにしよう。
 最初の証言者は『南方周末(広東省広州市)』の記者、朱又可(しゅようか)氏である。  

 1999年にペルハットの小説『自殺の芸術』が新疆人民出版社から出版された。この小説では西洋の近代主義的手法が駆使され、キリスト教と仏教の暗示や、性的、精神的な病の描写がなされていた。
 それでウイグル人読者の間に大きな反響を呼び、論争を引き起こし、ペルハットはインターネット上で罪に問われた。前衛小説における代表者だと言う者もいれば異教徒だとみなす者も出た。ペルハットは「だから私は過激派勢力の暗殺リストに入った。」と言った。
 ………2011年6月、ウイグル語ウェブサイトで「ウイグル現代文学の中で最も影響力のある30の小説」の人気投票が行われ、『自殺の芸術』は第1位にランクされた。ペルハットを支持する人々が大多数であったため、このことは彼を満足させ、慰めを与えた。  
 …………
 この数年間、ペルハットは孤独で、彼をとりまく環境はよくない。彼が書いた小説のせいで同胞であるウイグル人の一部からは責められ、漢族の知識人からも遠ざけられている。
 ………… 我々三人〔一人はチベット人詩人 〕は午後のひと時をゆったりと彼の家のリビングルームでくつろいだ。二人の子供はカーペットの上で遊んでいた。
 本棚が二つの壁に置かれ、中国語の本のほかにも英語とウイグル語の本がたくさんあった。彼は本棚にある『ユリシーズ』を指さし、それをウイグル語に翻訳したいと言ったが、出版社が、それはあまりにも難しすぎる、と断ったそうだ。
 …………ビールはペルハットの苦悩を消してくれるものだ。彼の独立独歩的な性格と文学的、社会的に高度な考え方は、彼が反発を食らうことを予見させるに十分だった。しかし彼は自分を変えることはできなかったのだ。

 次の証言者は、出版社のパーティーでペルハットに初めて会ったというコロラド大学アジア研究センター研究員のダレン・バイラー氏である。

 2015年2月、出版社のレセプションで初めてペルハットに会ったとき、人ごみの中を歩く彼を他のウイグル人が見る様子から、彼が重要な位置にいる人物であることは明らかだった。彼は目立っていた。
 私と少しおしゃべりをしたあと、「本当に退屈だ」と言った。彼は堅苦しい集まりや見知らぬ人のためにスピーチをするのが好きではなかった。会が終わるとみんなと握手をし、小声で何か言いながら会場を歩きまわり、すぐにその場を後にした。彼の家まで一緒に歩いていくとき、多くの人が彼に握手を求めにやってきた。
 ………… 彼は話すときに激しく身振り手振りを加えた。ほほ笑みが顔じゅうに広がった。とても誠実そうで、すべての感情が表に現われているように見えた。私が話すときには非常な注意力をもってじっと見つめながら、熱心に聞いてくれた。
 ………… 2015年3月、彼が再び自宅に招いてくれた。奥さんが手打ちの麺料理を作ってくれ、私たちはそれを食べ、それから八時間、ジョニーウォーカーのレッドを二本飲みながら話した。酔えば酔うほど、彼の話は長くなっていった。
 ………… 刑期を終えて解放されるとき、ペルハットは67歳になっている。彼が書いていた五つの未完の小説を世界が目にすることはないだろう。世界の文学界は、彼が世界的に偉大な現代小説家の一人であることを認めないかもしれない。
 彼はこの『再教育』の時代にいるべきではない人物である。彼は絶頂期に姿を消した。今残されているのは、未出版の作品の断片と、彼が創造した世界の光景である。


 三人目はハーバード大学所属、中央アジア・アルタイ研究家のジョシア・L・フリーマン氏で、ペルハットの詩を翻訳してアメリカやヨーロッパに紹介した人物である。  

 私がペルハットに初めて会ったのは十年以上前で、『自殺の芸術』をめぐる論争はほぼ収束していたが、彼は依然として物議をかもしていた人物であった。  
 ペルハットとは、私がウルムチに住んでいた2000年代後半から2010年代前半にかけて、数え切れないほど夕食をともにし、白酒(バイチュウ)〔中国の蒸留酒〕を酌み交わした。彼は頭が切れ、不屈の精神を持っていて、ものすごく面白くて、何を言い出すか予測できない、まったくユニークな性格をしていた。  
 友人には非常に誠実であり、ライバルには、とりわけウイグル人社会における保守的知識人には手厳しかった。自分の意見をはっきりと言い、時にはそれに皮肉を交えることもあった。
 昨年、新疆で前例のない大規模な超法規的拘束が行われているというニュースが流れたとき、私はペルハットのことを心配しはじめた。新疆と他の地域との間のほとんどすべての電子通信が遮断されていたため、この間に新疆の人々がどのような状況に置かれているのかを知る手段はほとんどなかったが、特にペルハットのことを心配していた。彼は知名度が高く、大胆な発言をしていたからだ。
 今年〔2018年〕2月、私の不安は確実なものとなった。何とか新疆を去ることのできた私たちの共通の友人が、ペルハットが昨年の1月下旬に拘束され、何十万人ものウイグル人やそのほかの少数民族が収容されている収容所に入れられたと知らせてきたのである。

 ジョシア・L・フリーマン氏は現在、ペルハットを知る複数の人物(バイラー氏も含まれる)と共に、インターネットを通じてペルハットや新疆の状況を伝える活動をしている。  

 四番目の人物は2015年6月にペルハットにインタビューをして「中国のサルマン・ラシュディに会う」というタイトルの記事を発表したジャーナリストのベサニー・アレン・エブラヒミアン氏である

 6月のある暖かい午後、私は、金色の線が印刷されている青い紙タバコから煙を一気に吐き出しているペルハットと一緒に座っていた。ナッツ類、ヒマワリの種、そしてワインが私たちの前の薄いレースのテーブルクロスの上に並べられていた。家具は落ち着いたネオビクトリア朝風だったが、彼の後ろの壁には現代的な三枚の抽象画が掛けられていた。「ここの芸術家が描いたものだ」と、彼は言った。
 四十代後半のほっそりとした体形のペルハットは、プラハのカフェでフォークナーを味わい、ヨーロッパの知識人のグループの中でカミュについてあれこれ話していたとしても、場違いには見えなかっただろう。
 しかし、彼が吸っていたのは中国産のタバコで、彼がいたのは中国の最西端にある大きなモスクから歩いてわずか10分のところにあるアパートメントだった。そしてフロイトとフォークナーへの賞賛を織り交ぜながら、ペルハットはムハンマドとイエスについて真剣に話した。しかし、言うまでもなく政治について話すことはなかった。  
 …………「ウイグル人の読者があなたの本〔『救世主の砂漠』、『自殺の芸術』〕についてどう考えると思っていましたか?」と尋ねたときペルハットは大声で笑い、「それについては考えたこともなかった。私はただ書きたかったのだ。」と言った。そしてニヤリとして、当時はそのようなものは一つもなかったのだと説明をつけ加えた。「だれもあえて書こうとはしなかったので、私が自分で書いただけだ。」
 事実上宗教界からのけものにされているにも関わらず、ペルハットは宗教に対して敵意は感じてはいないと語ったし、ワインを飲みながらではあるが、自分がイスラム教徒であると認めている。そして、教義を純粋に受容しているというよりは、一種の哲学的興味からくる普遍主義によるものだと語った。
 …………世界の聖典に対するペルハットの見方は、中国政府や保守的なウイグル社会が排斥してきた、自由で折衷主義的な世界観を垣間見せてくれる。ペルハットは言った。「私はいつも仏教の経典やキリスト教の聖書を読んでいる。」そしてチベット仏教の『死者の書』を称賛し、「これらの本の中には美しい言葉がたくさんあり、私はそのすべての言葉が好きだ。」と語った。

 五人目の人物はペルハットと同じ一九六九年にカシュガルで生まれ、ペルハットと同じように中央民族学院で学び、2017年にアメリカに亡命した詩人タヒル・ハムト氏である。ペルハットと共に詩の雑誌を発行し、若者たちの人気を得ていた人物で、評論家、映像作家としても有名である。

 私がペルハットに初めて会ったのは1988年2月のことで、彼はとても憂鬱そうで悲観的で、不安げな様子をしていた。しかし、私や彼の三年後輩の学生に対してはとても温かな態度で接し、私たちにもっと西洋文学を読むように勧めてくれた。フロイト、ニーチェ、ドストエフスキーなどモダニズムの文学について耳にしたのはこの時が初めてだった。  
 …………彼が「入院させられた。」ということを聞いたとき、私は不安になり非常に悲しくなった。でもペルハットが拘束され罰せられるような理由が何も思いつかなかったので、これは一時的なものかもしれない、すぐに釈放されるだろう、と考えて自分を落ち着かせようとした。  
 しかしながら当時の状況は非常に深刻で何が起こっても不思議ではないと考えていたので不安が大きくて、その夜は不安で眠れなかったことを今でも覚えている。」

 ペルハットを直接知っている五人の人物の、それぞれの視点から見たペルハット像が語られているが、ペルハットについての性格などが、漠然とではあるがつかめたのではないだろうか。 
 朱又可氏とベサニー・アレン・エブラヒミアン氏の話から、ペルハットが再婚していて二人の子供がいたことがわかる。最初の妻とは、二冊の小説が巻き起こした騒動のあと離婚している。 
 ペルハット拘束され強制収容所の中に姿を消したのは、精神的な安定を得て人生を再構築し、あらたな気持ちで創作活動に専念していたときだった。

ウルムチの繁華街、南門にあるモスク。(筆者撮影)。ペルハットの住まいはこの近くにあり、2009年7月5日のウルムチ暴動もこの近くで起こった。現在、モスクは改修され、華やかなイルミネーションで外部が飾られ、観光スポットとなっている。

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不条理の哲学とペルハット・トルスン
ペルハット・トルスンの詩の世界
新疆 強制収容所から流出した内部文書 日本語訳
強制収容所の中にいる人たち

ウイグル弾圧<ウイグル詩人<Perhat Tursun<ペルハット・トルスン